1995年01月の記事 (1/3)

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震災の記録 1/3

 1995年1月17日、早朝
 
 当時私は宝塚の実家に両親とともに暮らしていた。2階建て住宅の南西角にある6畳洋室が私の部屋だ。
 南側にベランダに通じる大窓があり、西は空けると六甲の山々が見える小窓がある。その小窓のある壁側にベッドがあり、私はそこに寝ていた。
 ベッドのある側と反対の壁側には高さ1.5mほどの軽量の本棚(と言っても本が並べられるとかなりの重量になるが)が立っている。
 成人の日である1月16日までの連休が終わり、前日就寝前に出勤の支度をしてから眠った。そして。
 
 まもなく目覚し時計が鳴るなぁ、と自然に目が覚めかけた時だった。
 ゴゴゴゴ、という聞き慣れない音が聞こえた。ガラス窓が割れるような音も遠くから近寄ってくる。
 その音が何によるものかを理解した、その途端。
 体験したこともない、爆発するような大地の揺れ。ベッドの上でシェイクされた。
「!!!」
 悲鳴を出そうとしても声にならなかった。
 その時に出来たのは、布団を頭から被りなおしたこと。窓際に寝ているので、窓ガラスが割れてしまったらその破片が飛んできたら怪我をするのが充分予想できる。
 私が寝ているベッドをかすめるように本棚が倒れてきた。入っていた本が床に散らばる。
 被りなおした布団の上にカーテンレールの上に置いていたテニスラケットが落ちてきた。
 家中がギシギシときしむ音がした。これ以上揺れたら次には家が崩れ、そして自分も瓦礫の中に埋もれてしまうだろう、無事で済むはずが無いだろうし、もしかしたら死ぬかもしれない。
 地震そのものは10秒とかからずに終わったのだと記憶しているが、定かではない。ようやく揺れがおさまった。
 家は崩れなかったのだ。
 また、怪我もしなかった。
 奇跡としか言いようがなかった。その時、私ははじめて『神』の存在を意識した。
 起きた時に着るつもりで準備していた衣服が散乱した本の下敷きになっているようだ。夜光灯も消えてしまい、月明かりが頼りだった。
 そうだ、電池で動くラジオが。確か、落ちてなければ枕元のいつものところにあるはずだ。手を伸ばしてみると、あった。運よくラジオは落ちていなかった。私は手探りでスイッチを入れた。
 いつもの早朝番組だろうか。平和な音楽が流れていた。
 今にも心臓が口からとび出そうだった。とにかく、落ち着けと自分に言い聞かせた。ラジオを聞きながら散乱した本の下敷きになった衣服を探し出し、ベッドの上で着替えた。
 やがて、ラジオから地震に関するニュースが流れた。
「只今関西地方を中心とする地震が発生しました。気象庁の発表によると、彦根で震度5、大津で震度4………」
 震源地は名古屋付近なのだろうか?私は不思議に思いながら続けてラジオに耳を傾けた。
「なお、大阪にあるスタジオでは棚の上に置いていた本が落ちた程度でした。…」
 嘘だろ?。ここ宝塚でも家が崩れなかったのが不思議なくらいの地震だったんだぞ!。
「尚、神戸からの震度発表がまだのようです。…」
 後で知ったのだが、当時の地震計は震度6までしか測定できなかったということで、震度7は想定外だったということ-。
 
 1階で寝ていた両親の声が聞こえた。返事をしたが、声は自分でも思った以上に小さかった。とにかく、部屋を出ようとした。
 ところがドアが開かない。地震で少し家が傾いてズレが生じたのだろう。これでもか。これでもか!。私はドアを持ち上げたりしながら、或いは体重で押し下げながら引いた。
 開かなかったらどうしよう!。部屋に閉じ込められてしまったのか?。最後の手段はベランダから飛び降りるしかなくなる。いや、ベランダに出る窓も開かないかもしれない。私は全身が総毛立つのを感じた。このまま部屋に閉じこめられてしまうのか!?。
 私はさらに力をこめてドアをひいた。一方でこのドアが閉まっていることで家を支えていたら、開けたとたんに崩れるのではないか、という余計な思考が邪魔をした。
 しかし、このままずっといるわけにも行かない。何かあったらその時だ、ええいままよ、と体重をかけていった。
 するとドアとドア枠がこすれてギギっと鳴り、ようやくドアを開けて部屋を出ることが出来た。
 暗い階段を忍び足で足元を確認しながら、ラジオを持って階段を降りた。
 夜が明けかけている。東の空に太陽が顔をだそうとしているのだろう、うっすらと見えるようになってきた。
 いつものように食卓のある部屋に入ろうとした。
「駄目!食器が割れて散乱しているから、スリッパを履きなさい。」
 母の声だ。どこにいるのだろう?。全く分からない。とにかくスリッパを下駄箱入れから出して履き、部屋に入った。わずかな光の中、部屋中に割れてしまった食器が散らばっているのが見えた。
 なんてことだろう!。食器棚が倒れて食卓テーブルにのしかかるようになっていた。開いた扉から飛び出した、皿やコップの殆どが割れてしまっている。地球が、自然がちょっと動いただけで人間の作ったものがあっというまに壊れてしまったのだ。
 しばらく放心状態だった。
 やがて夜が開け、明るくなっていく。近所の家ではブロック塀が崩れたところもあった。快晴の空が恨めしい・・・。
 精神的に落ち着いてきたところで少しずつ足場を確保しようと、散らかった室内を片付け始めた。とても会社に行ける状況ではなかった。
 幸いどういうわけかペットボトル飲料や缶ビール、さらにレトルト食品などの非常用に使える食料があったため、食べ物に困ることはなかった。
 
 私の住んでいるところは運良く昼前に電気が早く復旧した。初めて見たニュースは燃える神戸、倒壊した阪神高速道路、陥没した一般道、…。完全に倒壊した家屋の数々、報道のたびに増える死者数・・・。

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 完全に言葉を失った。何故よりによって美しい街・神戸に震度7にも及ぶ大地震がきたのだろうか。
 また、人間の力がいかに弱かを身を持って知った!。大自然に人間はとてもたちうちできないのだ。こういう災害で大事な人を失い、つらい生活を余儀なくされた人が神戸にいっぱいいることを思うと、人同士が傷付け合うことの愚かさを改めて考えてしまう。
 TVでは目の前にいる不幸のどん底にある人を映し、なぜ都市直下型大地震が神戸に起きたのかを討論・報道していた。それを見ていて思った。
 全国各地にニュースとして伝える義務はあるが、被災地で同じニュースを見る者の気持ちを考えているのだろうか!。少しでも助けることは出来るはずだ。ひとつだけ、どうしても忘れられない中継シーンがある。
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 地震後の火災で燃えているビル。そして、その外に立っている、ビルの住人。
 その光景を報道陣が撮影していた。インタビュアーがマイクを持ってカメラに向かって説明していた。
 そこに、住人の一人と思われる女性がインタビュアーに食って掛かるように飛びつき、大声で叫んだ。
「ちょっと、早く消防車呼んでよ!それぐらいできるでしょ!。どうしてマスコミはすぐ来るのに消防車は来ないのよ!早く火を消してちょうだい!家が燃えちゃう・・・。」
 女性がインタビュアーに向かって泣きながら叫んでいるのだ。その声の何と切実なこと!。そして、何も出来ないインタビュアー。カメラマンだけがその一部始終を映している。
 やがて焼け落ちてゆく建物。力を失ってその場に座り込んでしまう彼女。消防水が出ないため火を消すことが出来ず、見ているしかない近所の人たち。途中で画像は切れたが、きっとそのビルは全焼しただろう。
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 とにかく、身の回りの状況確認をした。
 ガスは止まり、水も出ない。
 近所周辺ガス臭く、当分火は使えない。
 電気は運良く昼には復旧した。
 天候は晴れ。もしこれで雨が降ったりしたらどうなるのだろうか・・・。
 しかし、とにかく町がめちゃくちゃである。これからどうしたらよいのだろうか。
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